馬路村は全国屈指の林業の村だった。
明治四十年には安田川沿いに軌道が敷かれ、人力トロリーによる原木の搬送が行われていた。
大正十二年には、アメリカのポーター社の蒸気機関車によって本格的な森林鉄道時代が幕開けし、良質な杉が馬路の山から都会へと切り出されていった。
かつての森林鉄道はここから更に二十キロ以上も山奥まで木の枝のように蔓延り、全国にも名高い魚梁瀬千本杉にまで通じていた。
その森林鉄道の駅がこの森林組合の場所にあり、ここから土場迄の間が日浦地区という商店街となっていた。
森林鉄道は原木輸送だけでなく、村人の交通手段や生活物資の搬送としても活躍した。
自動車がまだ普及されていない頃から新鮮な海産物や薬など様々な物資が、森林鉄道によって都会から馬路村へと運搬されてきた。
現在の柚子加工品などに見られるような、都会に負けぬ先見性はこの森林鉄道によって養われたのかもしれない。
昭和三十年代前半には村の人口は三千五百人にまで達した。
映画館やパチンコ屋まで建ち並ぶ日浦地区は杣夫達の歓楽街となり、昼間から三味線を担いだ芸者が歩いていたという。
今は見る影もなく、偶然残った古ぼけた看板だけが当時の勢いを語りかけているようだ。
その商店街の終わりに土場がある。
土場とは貯木場ことであるが、今は材木は無くただの広場になっている。
最盛期はこの土場に見上げるほどの材木が積み上げられて沢山の重機が動き回っていた。
土場の入り口に建つ営林署では都会から来た官僚たちが事務を執っていた。
外材に押されて国内林業が衰退するとともに、営林署も縮小され徐々に村の様子も変っていった。
今は林業に替わって農協による柚の加工が盛んだ。
馬路村のポン酢醤油や柚ジュースのごっくんは、全国的にも人気を得ている。
その勢いを象徴するかのように、かつての営林署の建物には農協が入っていた。
河原には机と椅子が並べられ豪華な皿鉢料理での宴会が用意されている。
慎也らが降りると拍手が起こった。
村長をはじめ村の幹部や農協、青年団など五十名ほどが出迎える。
その中には清岡舞の姿もあった。
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