翌朝、隆人は慎也よりも早く起きてスケジュールの打ち合わせをした。
この日は一日中、雑誌やテレビのための撮影だ。
慎也がゆっくり釣りを楽しめるのは金曜日だけで、土曜日は下流域での鮎釣り教室が企画されている。
打ち合わせが終わると隆人は慎也を起こして朝食をとった。
清岡舞は朝食時には居ない。
撮影は温泉前の河原からスタートした。
慎也は鮎釣り具メーカーのフィールドテスターだ。
フィールドテスターとは、新製品の試行をしてその開発に関わったり商品の宣伝などをするメーカーとの契約を結んだプロのことである。
慎也は来年発売される予定の黒ずくめのコスチュームを身に纏って河原に立った。
サイドの炎のようなデザインの赤いラインが黒いウエアを引き立てる。
忍者をイメージしたデザインとのことだ。
慎也は帽子を深くかぶると偏光グラス越しに川をじっと見つめた。
対岸近くの大きな石に挟まれた深トロに目が止まる。
「キュウメーのライト、メタルのゼロゼロファイブ」
慎也の声に、隆人が長い革のケースから手際よく竿や仕掛けを取り出した。
まるでゴルフのキャディである。
キューメーのライトとは、九メートルの長さの柔らかい胴調子の竿と言う意味で、メタルのゼロゼロファイブとは金属製の水中糸で〇.〇五号という号数である。
〇.〇五号の直径は僅か〇.〇五五ミリメートルしかない。
現在の鮎釣りは人間の髪の毛よりも細い糸で行われている。
最も細い金属糸は形状記憶チタン合金で出来た〇.〇二号である。
目にも見えぬほどの細さだ。
素材開発の最先端技術が鮎釣りにも注がれ、友釣りの仕掛けは飛躍的な進化を遂げた。
しかし、その極意は今も昔も変わらず如何に囮鮎を自然に泳がせるかということに他ならない。
その為には野鮎に気付かれないような長い竿と、囮鮎に負担をかけないような細い糸が必要となってくる。
慎也が手にしているのは来年発売予定の新製品の竿だ。
超高密度カーボン製で作られた九メートルもの長竿は、自重僅か一七〇グラム。
リンゴ一個の重さだ。
慎也はその赤い竿を伸ばして肩に担ぐと、音もなく川縁に片膝をついた。
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