翌年の春に加藤さんは退職をした。
そして数年後、加藤さんと再会する機会があった。
加藤さんは年老いて小さくなったように感じられたが、グリッと開いた目は昔のままだった。
僕は加藤さんに有田川で釣った鮎を持って行った。
「今晩うちに泊まっていけ。おまはんにちょっと話したいことがあるんやしょ」
と加藤さんは僕の手を引いた。
表情が少し暗かったのが気になったが、僕は突然泊まれと言われてもなあ、と遠慮してまた来るからと断った。
「じゃあちょっと待っとけ」
家の裏に消えて行った加藤さんは、鮎釣りベストを下げて戻ってきた。
「これ買ったんやけど足が悪うなって鮎釣りでけんようになったから、おまはんにやる。今度これ着て船戸橋の下で釣れ」
と言われた。
「わかりましたよ。加藤さんの代わりにバンバン釣らせてもらいます」
そう言うと加藤さんは顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
なのに良く釣れる有田川の方に通い詰めて紀ノ川にはつい行きそびれてしまった。
その年の晩秋、加藤さんに落鮎を持って行ったら寝たきりになっていた。
僕がそばに寄ると目を向けて何か言うが、何を言っているのか分からない。
加藤さんは直ぐにまた寝たような感じになった。
意識が戻ってあんたのことわかったみたいやして、と奥さんが声を詰まらせた。
加藤さんは僕に何を話したかったのだろう。
ひと月が経ち、加藤さんは帰らぬ人となった。
鮎ももう掛からなくなった肌寒い日、加藤さんからもらった鮎ベストを着て船戸橋の下で竿を出す釣りバカを、橋上から何人かが笑いながら眺めていた。
約束は守るから約束であって守れなければ約束とはいえない。
僕はせめて一匹でもと鮎竿を繰り続けた。