悲しくなる時がある。

 それは、自分の思っていることを相手に正確に伝えることができないときである。
 そればかりか、全く逆の意として伝えてしまうこともある。

 伝えたい人に伝えたいときだけ、自分の真意を質と量で現せられるのならどんなに楽だろう。心の中からその真意をちょいと取り出して、ほらって見せられたのなら。

 それがもどかしいレベルならまだしも、胸が張り裂けそうなくらい辛くなることもある。

 この前、懐かしい人にあってそう思った。
 いきちがいの多い思春期に、とびっきりの思い出として残っている大切な人に会って。
 
 それはまだ恋などとは呼べないほどの、ほんの小さな道草の萌芽のままで、今もなおわたしの胸の奥に寄り添っている若き日のしるしみたいなものだった。

 まさか30年も経った再会で、あのときと同じ局面になるとは思いもしなかった。
 つまりわたしもその人も変わっていなかったということだろう。未だに袋小路なんて奇跡だよ、って笑いかけたら妙にシリアスな空気が鈍器のように振り下ろされた。

 輪郭しか思い出せない、そんな人から今頃になって残酷なストーリーを突きつけられるなんて覚悟していなかったよ。
 あなたにとってはすっかり過去の思い出話かもしれない。笑いながら話すような内容ではないと、なぜ気が付かないのだろうか。

 不意打ちかい、イヤな思い出ならザッパリ裏切り捨ててほしい! と心の中で叫んだ。自分が理解されないのが、みっともないこととは比較にならないほどつらいもんだと痛んだ今日だけでも。

 笑顔で装った落胆の沈黙に、あなたは何の気配も感じなかったのだろうか。

 確かにマッチいっぽんぐらいの温かさで袋小路から抜け出せるって、曲はあった。
 微睡みもせずラジオにしがみついて、石物のようにそんな曲を聴き続けたこともあった。
 
 ネットで探し出して久しぶりに聴いてみる。
 やはり、みぞおちのあたりに弾きかかるピアノの旋律は、ただ自虐心をあおるだけで悲しい曲だ。

 まるで、わたしのために作った曲。
 恐ろしいほど心の中がリアルに映し出されている。
 
 でも・・・・・・、あの時と何かが違う。
 なんだろう、小さく波打った胸に不思議と素直さが揺れ戻ってくるような感覚は。
 スーっと体が軽くなっていくようだ。 

 マッチいっぽんぐらいでホントにいいのか?
 絶対ムリだと思わない方がいいのか?

 袋小路で出られないのが、つながっていて「いつか」を得られるプロセスだと信じるべきなのか?
 何故か、その方が直ちに最良の方法を模索するよりも自分らしい、とこの曲を聴くうち傾き始めた。

 袋小路もまんざらではない、とね。
 わたしは変わったのだろうか。

 
 久しぶりにあなたに会って。
 わたしは今さら変わっていこうとしているのかもしれない。