駅に着いたらすっかり日が暮れていた。
 通勤帰りの雑踏で、誰かがつまずき玉突きになる。
 わたしは前の人に頭を打ち、背中に後の人がぶつかった。直ぐにスイマセンと言って散っていく人々。ここで終わればよくある話。

 だが、わたしの後ろの人が肩をつかんで離さない。
 そのつかみ方が尋常でなく、あのぅ、と振り向いたら女性らしい。そして、杖が見えた。

「このままでいいですか」と声が若い。
 わたしは事態を察知し「え、ええ・・いいですよ」と答えた。

「すいません」と彼女。
「じゃあ歩きますよ」とわたし。
 彼女はわたしの肩を強くつかんだままだ。正直困ったなと思った。

 家は同じ方向らしい。二人は暗い道を歩速半分以下でぎこちなく歩いた。
 問わず語りで彼女がしゃべる。

 生まれつき全盲で二十歳。JR和歌山駅の近くにマッサージの会社があって、同じような方達とそこに住み、今日は週1の帰宅の日だという。
 1人で帰るのは初めてで、親が許してくれず相当やり合ったと笑うが、わたしは笑えなかった。

 わたしも1人でやってみたいと我を張ることがある。そして実際が思惑通りでなかったということもある。それが今の彼女だろうか。
 話すだけなら普通の女の子。

「じゃあ花の色とかも?」と訊いて、シマッタと思ったが、「ええ全然、でも形や匂いはわかりますわ」と屈託無く彼女。花を愛でる姿を想像すると胸が詰まる。

 わたしは彼女に比べ、どれほど自由かしれない。
 わたしは彼女をは計り知れない。そして、彼女もわたしを理解できない。

 人間誰でも、内に多かれ少なかれ苦しみや悩みを抱えている。与えられた境遇をちゃんと引き受け、ぎりぎりの所で精一杯生きていく。その点においてはわたしも彼女にも径庭はあるまい。

 2時間半もかけて大阪に通勤しているわたしに彼女が驚く。
「大変ですね」と気遣われ「えっ・・・ああ」と今度はわたしが驚いた。

「でも、がんばってくださいね」
「はい」
 と謙虚にわたしは答えた。

「あらキンモクセイが咲きましたわね」と彼女がつかんだ手を緩める。
 見上げると大きな木。確かにこのフルーティな匂いはキンモクセイだ。

 キンモクセイは秋の訪れを告げる花。もうこんな季節になっていたのか、とわたしは彼女から教えられた思いがした。
 彼女はまたわたしの肩をギュッと握ると、仕事と生活で独立するのが夢だと語った。

 どれほど歩いたろう。前方の路地に女性が立っていた。
 その子の名前を呼びながら駆け寄ってくる女性。口元を押さえて申し訳なさそうに礼を言うその声がかすれている。

 女性が彼女の手を取った時、わたしは初めて彼女と正対した。
 凛と屹立する彼女。くぼんだ目はかたく閉じられている。
 「じゃあ」と手を挙げて去ろうとすると彼女は「ありがとう」と満面の笑顔をつくった。

 その時、何故か・・・、何故だか急にすがすがしくなって、わたしは、振り返りもせず家路への暗道へと足を進めた。