その数日後、ボクの小便が会社の便器を血で真っ赤に染めた。
翌日、家内に内緒でN医科大学病院に行った。
医者は、ボクより遙かに若かった。症状を言うと、妙に深刻ぶって時々首を傾げる。医者が首を傾げる度、不安になった。
子供のような質問に、小難しい医者の顔が解けた。
「膀胱も特に異常は見られないようです。前立腺かもしれませんねぇ。前立腺を調べましょうかねぇ」
医師はセンサーを片づけると、看護婦が処置室から退去した。嫌な予感がした。
「はい、入れますよ」
「あたっ!」
「はい、力抜いて下さーい。はい、もっと力抜いて下さーい」
どうにでもなれと肛門の筋力を諦めたら、ズブリと医師の指が入ってきた。うぐぐっ。
家内には、まだ話さないでおこう。心配を掛ける時間が長くなるだけだ。最悪な結果なら知るのは遅いほど良いだろう。たいした結果でなければ言わなければいい。
家内が、大慌てで病院に送ってくれた。ボクは、N医科大学病院に行くことを家内に求めた。家内も大きな病院がいいと、応じてくれた。
昨日とは違う若い医者だった。
絞り出すような声で答えた。
「あぁ座薬が効いて全然大丈夫や。痛みが止まったら何ともないんや」
「まぁ、なんかあったら電話してや」
家内が妙に優しかった。
真っ白な便器に鮮血がベットリだ。
気が動転したが、出かかったものは全部出さないと仕方ない。放尿を終えると、慌てて水道の水を手で掬って便器に何度も掛けた。鏡に映った自分の顔をまじまじと見た。少し息が上がって火照っている。さっき水を掛ける為動いたからだろう。どこも痛くない。いつもと同じだ。体調に何の異変も無いことがかえって不安を助長する。
半年前の職場の健康診断では何も異変はなかった。
昼休みに、職場の書棚にある家庭の医学を読んだ。 症状からすると、腎臓結石など体内に出来た石の可能性が高いが、四十代以上で痛みのない場合は癌の可能性もあるとのことだ。特に、家系に癌があれば要注意と書かれてある。家系に癌は居ないけど、気になってしかたがなかった。
残業もそこそこに退庁した。 夜、浅い眠りから布団をはね除け上半身を起こした。目覚まし時計は二時を回っている。家内は横で静かに寝たままだ。外でカタンと物音がした様な気がした。そっと立ち上がってカーテンを捲った。薄暗い街頭がアスファルトを照らしている。誰もいないし、何もない。異様に静かな夜だ。夜中とはいえ車の音さえ全く聞こえない。
星のない妙に重量感のある闇が町全体にのし掛かかり、地上のもの全てを押さえ込んでいるようだった。静かすぎる。みんな死んでしまったんじゃないのか。いや、ボクが死んでしまっているんじゃないのか。そんな馬鹿なことを考えて家内の寝息を確かめた。家内が寝返りを打つ。それを見てまた布団に潜り込んだ。横向きに体を丸めひたすら朝を待った。陽光に照らされた明るい朝を想像し、ただひたすら夜の明けるのを待った。
翌日、家内に内緒でN医科大学病院に行った。
医者は、ボクより遙かに若かった。症状を言うと、妙に深刻ぶって時々首を傾げる。医者が首を傾げる度、不安になった。
「エコーを撮って内臓を見てみましょう」
「痛いんですかねぇ?」子供のような質問に、小難しい医者の顔が解けた。
「超音波ですから、痛みは全然ありませんよ」
処置室と言うところに案内された。 ベットに横になると、手の平より少し大きいぐらいの白いセンサーを当てられた。医師はモニターを眺めている。気にしながらモニターの方を見ると、医師はモニターを向けて見せてくれた。
「これがあなたの腎臓です。腎臓は腫れもなく標準的な形をしてますねぇ。今度は膀胱を見てみましょう」
医師は、センサーを押しつけながら、ボクの下腹部の方にずらしていった。「膀胱も特に異常は見られないようです。前立腺かもしれませんねぇ。前立腺を調べましょうかねぇ」
医師はセンサーを片づけると、看護婦が処置室から退去した。嫌な予感がした。
「今から前立腺を調べます。肛門に指を入れますから、一寸痛いですけど我慢して下さい」
何てよ! 肛門に指入れるってか。勘弁してくれよぉ。「全部降ろして、仰向けのまま両手で膝を抱えてお尻を突き出して下さい」
医師は、サディステックな表情で右手を立ててゴム手袋を填めた。「はい、入れますよ」
「あたっ!」
「はい、力抜いて下さーい。はい、もっと力抜いて下さーい」
どうにでもなれと肛門の筋力を諦めたら、ズブリと医師の指が入ってきた。うぐぐっ。
「ここ痛いですかー? こちらは?」
医師の問いに全て痛いと答えた。肛門に指を指され、クリクリこね回されたら痛いに決まってる。もっとも、疣痔気味であったことも原因かもしれないが。 やっと終わって医者が指を抜いた時、額には脂汗が滲んでいた。こんなんで何が分かるっつーんだ、若造。肛門をヒリヒリさせながら、すり足で診察室に戻った。
結局よくわからなかったため、日を改めて精密検査を行うことになった。全ての検査が終わるのは一月後だ。
病院を出て職場に向かった。
癌だったらどうしよう。医療が進歩してるったって、癌にはかなわないよな。陽の明るさに助けられてか、夜中ほど深刻にはならないが、不安が腹の中にこびり付いている。家内には、まだ話さないでおこう。心配を掛ける時間が長くなるだけだ。最悪な結果なら知るのは遅いほど良いだろう。たいした結果でなければ言わなければいい。
って、まさか家内への思いやり? 自分でも不思議だった。美しすぎるぜベイビー。こんなことになって家内を思いやる気持ちを発見するなんて、意外だよな全く。
それにしても、電車がなかなか来ない。急行の止まらない駅なんだ。吹きっさらしのホームで、三月の空っ風が薄着の体を心まで冷やした。 翌朝、強烈な腹痛で目が覚めた。
下腹部を、つま先で思いっきり蹴り上げられた様な激痛だ。呼吸すらままならない。家内が、大慌てで病院に送ってくれた。ボクは、N医科大学病院に行くことを家内に求めた。家内も大きな病院がいいと、応じてくれた。
昨日とは違う若い医者だった。
「前日の血尿からしても、おそらく結石だと思います。今、どこか抓られるような痛みは無いですか」
「左の背中の後ろの方が」絞り出すような声で答えた。
「おそらく腎臓結石でしょう」
レントゲンを撮った。 左側の腎臓に、砂粒ほどの石が三個写っていた。そのうちの一つがはがれたらしい。
念のため、精密検査は予定通り行うこととした。 家内に、昨日からの事を話した。家内は血尿を心配したが、自分の父親の例を挙げて、結石であることを強調した。強烈な痛みがあったことで、気持ちは幾分軽くなった。
一月後、精密検査の結果が出た。
右側の前立腺にも石が一個あった。左側の腎臓には石が二個あり、あの時はがれた一個は体外に出たようだ。癌などの命に関わる原因は無かった。痛み止めの服用剤と座薬を貰って解放された。「仕事行くから紀三井寺の駅まで送って」
「あんた大丈夫? 今日は休んだら」「あぁ座薬が効いて全然大丈夫や。痛みが止まったら何ともないんや」
「まぁ、なんかあったら電話してや」
家内が妙に優しかった。
座薬が効いたのか、一日中痛みは襲ってこなかった。
残業して帰宅すると、マーモーが柵の中で走り回っていた。キュウリを持って覗きこむと、見ろボクの若さをと言わんばかりにジャンプまでして見せた。 マーモー、ボクにもそんな時代があったんやで。そんなちょこっとしたジャンプやない。一晩で神戸、大阪、和歌山と、大阪湾半周してはしご酒したこともあっったんや。
ボクは、シャリシャリとキュウリを頬張るマーモーの首筋を指先で撫でた。
若く暖かい体温が指先に伝わってくる。軽く押しつけると、張りのある筋肉がこりこりと跳ね返ってきた。黒い宝石のような眼球が、円熟した生命体の証のようにキラリと光る。やっぱり、命の鮮度は目だな。目は、その生き物の心理や身体を如実に現わす。マーモー、お前は溌剌としている。この瞬間、あまねく存在する生き物の中で、一際美しい生を放っている。
ボクも肖りたいものだよ全く。
マーモーの、精密で光沢のある瞳、躍動感溢れる身体をいつまでも羨望した。 結石はそれから二年ほども続いた。
決まったように秋に症状が出た。医者の話では、夏に作られた石が、秋に降りてくるのだと言うことだった。